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命を奪うということ

このあいだFacebookの投稿でようやくずっと心に溜め込んでいたことが話せた。

https://goo.gl/UQMGhA

アライグマの赤ちゃんのこととか、有害鳥獣駆除のこと。テレビ出演のことよりも、この話に共感や反響があったことのがはるかに嬉しかった。


死刑台やペット処分場のボタンを押す人もかなり辛いようだけど、僕らの場合は機械を通さず自らの手で動物のいのちを奪う。50キロを超えるようなククリ罠のイノシシ以外にはあまり銃を使わず、泣いたり怯えたり怒ったりしている彼らを抑え、ナイフなどでトドメを刺して絶命するのをじっと見ながら待つ。戦争で人を殺して心を病む兵士がいるけど、それが人の犯す極致的な行為であるなら、泣きじゃくる無抵抗なアライグマの赤ん坊の命を自らの手で6匹も同時に奪う心理的ダメージはさほど変わらないのかもしれない。


15年ほど前、今や親友となったインドネシアの独立派ゲリラGAMの特攻隊長だった友人を取材していた時、彼が話してくれた「お前は人を殺したことがあるか?たとえ遠くから銃で相手を殺しても、その感触が手に伝わるんだ。それがとても、気持ち悪いんだ…」という言葉が強烈で、殺し合いを繰り返す人の業・愚かさもそうだけど、人を殺すというのはそういうことなんだなとか、強い影響を受けながらも同時に”他人事”としてずっとアタマにこびり着いていたんだけど、今や彼の言っていたその”感触”が分かるようになってしまった。


こんな風に屠殺のことを話すと、残酷だから恐怖や痛みをなるべく与えずにトドメを刺すべきだと言われる。よく分かるのだけど、現場では動物にとって死は死で、「残酷」という観念は人間側=奪う側が自分を正当化・護るための言い訳でしかないようによく矛盾を感じる。


「残酷な殺し方」とは何か。。。それを言うなら、殺すこと自体は残酷ではないのかー。


また屠殺方法などを指摘するのであれば、家畜の豚や牛がベルトコンベアのようなもの

で運ばれてきて、電殺により無機質に次々と一瞬で命を奪われ、他の個体とごちゃ混ぜにされて何らの命、その向こうにあったそれぞれが生きた証を何一つ感じられない肉片となりスーパーに並べられ、日々大量に廃棄されていることのほうがよっぽど残酷だろと思う。そこに幾ばくかの違和感すら覚えずに一生を終えることのがよっぽどだ。


少なくとも僕ら猟師は、彼らがメスだかオスだか、大きい小さい、大人しかったか獰猛だったか、奪った命の重み、感触、そして生きた証を知っている。

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